それでも始まるオリンピック、それでも生きていくわたしたち【文責・雨宮美奈子】
夏の暑さに、今日もまた嫌気がさしています。あっついわ、溶けてしまいそう。
暑さメラメラ、太陽がうねるように照らしつけるこの東京で、ぶつ切りの演出を何個か用意して、それらをヨイショと繋いだような、なんともぼんやりとしたような印象の開会式で始まりましたね、いざ行かん、TOKYOオリンピック2020。今年は2021年だけれども、2020と表記するのが正式名称だそうで、ここにオリンピックを無理矢理に実行しようとする不思議な力強さと、焦らされた選手たちの苦悩、さまざまなものが犠牲になったのであろう悲しみが詰まっている気がしてなりません。
皆さま、どうでしたか。
開会式、どんな感想を抱きましたでしょうか。
わたしは、いろいろと思うことがあり、胸が痛くなり、とにかく疲弊した開会式でした。しかしそれと同時に、なんだか肩の力を抜いて楽しんでしまったイベントでもありました。
失礼、ちょっと聖火ランナーの話をしますけども
聖火の最終ランナーは、テニスの大坂なおみ選手。
さっそく翌日からテニス競技が始まるというのに、23時半を過ぎてもカメラの前で走らされている現役の選手って、あまりにちょっと可哀想だなと思うのが個人的な正直な感想です。お疲れさまでした、早く彼女を寝させてやってくれ。見ているこちら、彼女へのリスペクトと、彼女を採用した人にため息。
……にも関わらず、Twitterに溢れていた「純日本人に走って欲しかった」、「ランナーは日本語がきちんと話せる人でなければいけないのでは」などの声を見て、これまたため息が漏れました。ははぁ、そうですか。
さて、じゃあお尋ねしますけどね、純日本人っていったい何でしょうね。どんな定義を持って純日本人なのでしょうか、肌の色?日本語のうまさ?
その概念がいかに曖昧なものか、その言葉がどのように刃となってひとを傷つけるのかということをツイートしているひとたちは知らないのだろうなあ、とシンガポールに生まれていま日本で過ごしているわたしは思わず遠くを見つめてしまいました。
こういうことを言う人たちは何年も前から、本当はずっとずっとこの世界にいました、でも大坂選手のようなスターが現れて、そこにインターネットが合わさることで、実はこういう人たちが膨大な数がいたことが誰の目にも見えるようになったのだなあと思っています。残酷にも可視化されたわけです。
さてはて、じゃあそんな純日本人信者の方々にお尋ねしたいんですけども、大坂選手の前に聖火を持って走っていた、野球界のレジェンド・王貞治さんのことには触れないんでしょうか。どうお思いでしょうか。
長嶋さんと松井さんと一緒に走っていましたよね、野球ファンには嬉しいシーンだったかもしれません。公表されている情報によれば、王さんは台湾国籍の人間で、日本国籍は今も保有していないそうです。
ちなみに、彼は生まれも育ちもずっと日本で、日本で野球人生を過ごし、自身はまごうことなき日本人である!と仰っている方。ならば彼は日本人ではないか、と思うのがこれまたわたしの個人的な正直な感想ですが、みなさまどう思いますか。今日この文章を読むまで、日本国籍の人間だと思い込んでいた人も多いのでは?だとしたら国籍が違うだけで、急に彼は日本人じゃなくなりますか?
もう一歩、踏み込みましょうか。
いわゆるハーフの人間が純日本人ではないというのならば、クォーターはどうなりますでしょうか?自分の先祖の数百年前までに遡る細かなルーツを、日本人と名乗る全員がはっきりと知っているでしょうか?そこでいう日本人の線引きはどこまでありますか?
日本で生まれ育ち、日本の教育を受け、日本語が話せて、日本しか知らないぞという人が日本にしっかり納税していても、あなたはその方に聖火を持つ権利がないと思いますか?
たとえば見た目は純日本人だと言われるわたしが、実はいわゆるハーフで、でも日本での教育を受けてこの文章を読んでお分かりのように日本語ぺらぺら。でも、日本国籍は保有していない。となると、わたしは何人ですか?法律のせいで日本国籍を捨てざるを得なかったわたしが、ここで日本人と名乗ったらアウトですか?
わたしは怒り狂っていますよ。
そんなツイートが飛び交う日本の現状に、それに違和感を抱かない人が多い現実に。
世界には想像以上に多様な存在の人々がいること、それぞれに線引きできない世界があること、グラデーションのように人々がアイデンティティを持ち、それぞれが尊重されることが基本であること。少なくとも今ここでこの文章を読んでくれているあなただけでも、そういった「未知のものをも」想像する優しい力を、フラットな目線を持ち合わせていてほしいと強く願うばかりです。
ということで今回の『文責・雨宮美奈子』のテーマは、時事ネタとなります「東京オリンピック」。
オリンピックの開幕とともに感じるさまざまな事柄に感じたこと、考えたこと。それらを丁寧に反芻しながら、因数分解してみて、皆さまに伝わるような言葉に落とし込みたいと思います。強い言葉も、やさしい言葉も添えてみます。散らばるように考えたことを、ここにいくつか集めてみます。
なぜならば、それでもわたしたちはオリンピックが始まってしまったこの場所に生きていて、ここでまた日々を営んでいくのですから。
しかし暑いね、「本当」に暑いね
何度でも言うけれど、この東京という土地、嫌になるほど暑い日々が続いている。真っ昼間に東京の道をちょいと歩いてみれば、上から降り注ぐ太陽の眩しさと、下から反射するアスファルトの暑さにサンドイッチされてしまって、暑さが苦手なわたしは、脳の奥が瞬間沸騰してしまいそうになる。
短時間でもこれ、日傘をさしてもこれなのだから、日傘をささずにじっと歩くひとの姿を見ると、日傘はいいぞ、お前も買えよ、と勝手に声をかけたくなる。
そんな暑さの中でやるという東京オリンピック、いやはや、ちょっと信じられない。こりゃ本当に始まるのかしらとなんだか最後まで半信半疑ではあったけども、家の窓からでも東京タワーが五輪色にライトアップされた姿が見えて、遠くに開会式の花火が見えたもんだから、ああ本当に始まるんだなと感じて開会式は始まった。
そんな日に限ってなかなか寝付かない赤ちゃんに授乳をしながら、音量をギリギリまで下げたテレビでわたしは開会式の様子を見つめた。なかなか眠れない赤ちゃんは開会式に興味を示していたので、ときにテレビ画面を見せてあげたら、なぜだか面白がっているようだった。ほらご覧、これが0歳の君が初めて見るオリンピックだよ、君が住んでいるここが開催地なんだよ。
直前までの報道されているような辞任劇のせいで、きっと二転三転とドタバタしたのであろうし、実際の現場で何があったのかは、当事者たちにしか本当のことはわからない。その上で、という話にはなるが、開会式をテレビ越しに観ているひとりの視聴者としては、なんともつまらない、ぶつ切りの演出をなんとか繋げて、やっとのことでお茶を濁しただけのような開会式のように見えた。ありゃ、いかがなもんでしょうか。
突然流れるジョン・レノン『イマジン』の合唱を含めて、ここには多くの欺瞞に満ちているように見えたのだった。
(そういや『イマジン』という歌には、国なんてない、宗教なんてないという歌詞があるけども、国ごとに出場して戦い、多様性を認め合いながら一同に集まるオリンピックにこの歌って本当に合っているんだろうか)