それでも結婚するなんて愚かだと、君は言うかもしれないけど〜犬養毅になりたいな【文責・雨宮美奈子】
先週、東京・麻布十番を歩いていると、あっちにもこっちにも大勢の警察。
よく見ればなかなかの重装備、しかも全員が険しそうな顔でウロウロしていて、うっかり犯罪現場にでも迷い込んだのかとソワソワしたのですが、なるほど忘れてました、そういやまもなく“例のスポーツの祭典”が開催されるのでしたね。大使館が多いエリアでは、警備もえらく厳重なようです。
それを見てもなお、東京に住んでいてもちょっとまだ、本当に“例のイベント”を開催するのかどこか信じられない気持ちでいるのですが、皆さまは信じていますか、いかがお過ごしですか。どうも、雨宮美奈子です。
今週のニュースレター『文責・雨宮美奈子』の題材は、“結婚”。
いつの間にやら、わたしも20代の始めに勢いで結婚をして、早数年。今や30歳になりました。
なんとか離婚せずにここまで来ましたが、この数年の結婚生活の間に愛も憎しみもミルフィーユのように重なり合って、引くに引けない、とんでもないことになっています。
就職、結婚、出産育児、ときに転職。大人になると当たり前のようにFacebookで次々と報告されるそれぞれのイベントに、正解も不正解もない、はずなのに。
結婚したとは投稿したアイツも、離婚したときは投稿せず、しれっと苗字だけが戻っていたりして、みんな何かを感じ取ったりして勝手に察していたりします。もちろん、それならそれでいいはず、なんだけど。
しかしわたしたちは、それでもどうして隣の芝が今日も青く感じる、んだろうね。
そりゃわたしも、犬養毅になりたいけどさ
結論から言ってしまえば、わたしがここ数年の結婚生活で得た学びはたったひとつ、「他人のことなど永遠に理解できない」ということだけだ。元も子もない。人間はひとりひとりが違う人間である、そして完全な相互理解なんて不可能、そんな当たり前のこと、だけ。
ときの総理大臣、犬養毅。
彼は1932年に海軍の青年将校に銃で撃たれたものの、その直後にはまだ少し息があったという。そして死にかけながら「今の若者を連れ戻せ!」と叫び、最後まで相手と話し合いをしようとしたらしい。
なるほど、そこには人間と人間がちゃんと向き合って話せば───たとえ、それが銃で頭を撃った加害者と撃たれた被害者であろうが───理解しあえるかもしれない、という素晴らしい希望的なメッセージを読み取ることができる。彼が残したそんな「話せばわかる」というメッセージはあまりにも有名で、日本史の教科書にも記されている。そこには純粋で真っ当な、人間の相互理解への美しい期待が横たわっているのかもしれない。
しかし現実として自分を撃った青年との話し合いは実現しなかったし、犬養毅はそのまま亡くなった。残酷だね。
ひとは確かに「話せばわかる」のかもしれない。
しかし、現実には相手がそもそも「話す気もない」ことのほうが多く、そもそも相手に「話す気がある」があるならば、その時点で銃で撃たれることにまではならない。
そりゃわたしだって、わたしだってさ。犬養毅のように他人に対して美しい期待を持ちたいですとも、死ぬ間際になってもそんなセリフを口走ってみたいですとも。この世界にはぎっしりと希望だけが敷き詰められていて欲しい、しかも今はダイバーシティの時代でしょう、なおさらにまったく違う人間同士でも相互理解が当然に叶うような世界線を信じたい。それは一種の本心だ。
でもね、現実を泥臭く生きていく中で、本当にその期待を抱いたままでいられるかどうかといえば、ごめんなさい、それは無理。
わたしは結婚生活という大変な戦場の中、たったひとりの人間に「話せばわかる」と連呼してみた結果、こいつを銃で撃つしかないとまで本気で思ったので、そんな希望はもう、抱いていない。